今の時期(10/16)に咲いていました。 大き目の花柄なのでツツジのようです。
葉っぱの造りをみるとサツキのようでもありますが。 ツツジやサツキで、この時期に咲く種ってあるのでしょうか? サツキツツジと言うのもあるそうですが…。 園芸植物などは特に色々に交配した種があるので、一通りではありません。 そうした種の違いではなく、 狂い咲きの部類かも知れません。 時季外れのモノ事ってけっこうあるものなので…。 雨上がりの雨露に濡れた風情がいいと思いました。 胎内市の陶芸研究所の駐車場脇で撮ったモノです。
方向、方角、地理
週一で通っている陶芸教室講習ですが、 市街地の山側に位置したこの地は周りは緑がいっぱいです。 胎内市は日本海に面したところに在るので、 山側は東南方向になります。
この地理的な事からこの地で朝日を望む風景は山の上から昇ってくる状況しかありません。 お月さんも同様ですね。
小生は関東地方での生活が人生の半分近くでした。なので ついつい、関東地方との地理的比較をしてしまいます。
関東だと少し時間をかけて車で行くと東の方向に大平洋が望めます。一方、西の方向には山が見えます。あの霊峰富士も望むことが出来るところがあります。
(こちらで海から昇って来る朝日を見たい時は数時間、車で移動しないといけません)
関東地方では夕日を望むときは山の向こうに沈んで行く風景しか見る事が出来ません。
こちらは日本海に沈んで行く夕日が見られます。個人的な好みもあるようですが、朝日と夕日が共に海の向こうから昇り、沈んでいく風景にはなぜか、ロマンを感じます。
「youtybe」動画で、ある人が湘南と呼ばれている鎌倉の海岸からの霊峰富士の夕景を完全に太陽が沈んで暗くなって行く風景を動画で連続撮影したのを投稿しています。
霊峰だけに雰囲気が違います。撮影した人の想い入れのような事を感じさせる動画です。
夕日が沈んで行く方向に霊峰富士・・・。世界文化遺産の富士山ってなかなかのモノです。
このブログではそうした投稿にリンクはつけていません。せっかくの来訪者をリンク先に追い出したくないからですが・・・。
興味のある方は 「YouTube」で検索すると多くの人が富士と夕日の対照に気を惹かれているというのが分かります。
お気に入りの風景が見つかるといいですね。
日本人のお風呂好きは世界的にも有名なのだそうです。共同の大風呂に浸かるためにホテルなどにある日帰り温泉浴が人気だそうです。
スーパー銭湯と言うのも人気が高いようですが。
共同の大風呂に丸ハダカで入るというのは世界広しと言えど、ニッポンだけなようです。考えて見ればまるきり他人の人達に自分の全裸姿をさらす感覚は不思議ではあります。
世界の熱帯地方の奥地というか秘境には丸ハダカ同然の生活を営む文化を持つ人たちが現代でもいるそうです。
人によっては現代地球の自然を不自然なモノにしたのはキリスト教文化なのではないか、と唱える事があるそうです。
人類の起源はアフリカの熱帯地方ではないか、という考え方があります。
その熱帯地方での生活圏を広げるために北へ南へ、海外へ移動していくと熱帯地方のように全裸でいると寒くて生活に支障をきたす地のある事が分かりました。
裸の猿のような人類は狩猟で獲得した動物の皮を衣服のように加工する技術を覚えたようです。その毛皮をまとう事で寒さが凌げる事を覚えたのが始まりなのではないかと考えられています。
現代人でも毛深い体質の人はいますが、犬や猫、野生の猿のような毛深さではありません。
日本で言えばアイヌ民族の血縁の人達のように北の地方ではかなり毛深い体質の人は少なくなかったかも知れません。それでも野生の猿のように衣服をまとわないではいられない体質だったのではないかと考えられます。
なにせ、狩猟を中心に暮らしていた時代が1万年以上もあったそうですからそうした体質は人類の遺伝子から受ける体質的な影響が少なくないようにも思えます。
人類の生活文化は時代によって変わって来ていますが、体質には遺伝子とかのような人智の及ばないチカラが関わっているように思います。
近年のバイオテクノロジーとかの研究でその遺伝子の組み換えなどのように人が遺伝子の形を変えられるような技術が研究され開発されだしているそうです。
そのような事は神の意思を冒とくするような行為だとかで研究学者の「倫理」の事が言われるようになっています。
遺伝子とかDNA.とかの情報を人間がいじっていいのか、という倫理の問題と言うよりそうした行為で神の領域にまで踏み込めると思い込んでいる学者バカがいる現代の科学に問題があるように思います。
つまり人類に不可能はない、かのような発想はナポレオン時代…(世の辞書には不可能と言う文字は無い)というの様な発想があるのだと思います。
そうした発想は太陽が地球の周りを周っているという天動説的発想だと思います。現代では天動説は「糞飯」ものと言われるほどなのですが、生物学の世界では今だにこの天動説的な発想が当たり前なのが気になります。
見えない物は無いモノ、無い事と同じなのだというバカ学者がいるくらいです。専門バカという言葉があるくらいです。
昔から一つの事に拘っていると専門の研究事以外の他の事が見えなくなり、専門以外の事は知らないという傾向があったのだと思われます。
専門の有識者という言葉にはそうした危険な事があるように思います。
有識という事は知識として多くの事を知っているという事のようですが、知っているという事と、出来る、多くの経験を積んで物事を為す事が出来るという事との間には大きな違いがあるように思います。
そういう意味では職人さんより学者先生の方が偉いかのように思われている世界に問題があるようにも見えます。
例えば日本人の国民食とも言われている「ラーメン」一つとってもその道何十年という専門の学者が研究所で知り得た知識で美味しい「麺」「スープ」「チャーシュー」とできあがる理屈を説明できるかも知れません。
説明、出来たとしてもほんとに不特定多数の人が美味しいという「ラーメン」が造れるとは限らないばあいがほとんどだと思います。
専門の学者は無用だ、という事では無く、そうした学者より「ラーメン職人」が劣っているかのように思われがちな傾向があるのが気になるのです。
有名なタレントさんにはタレント活動以外に才能を見せる多才な人がいます。多才という才能には人間の持って生まれた遺伝子や頭脳の働きによる事が多いようです。
ネット限定本「脳科学・・・」→→→http://directlink.jp/tracking/af/1184332/Lcij7go5/